Peace Mikadoland
12.Peace Wall
IRAという組織、あるいは北アイルランド紛争については、なんとなくの記憶はあります。ただ、記憶はあるといっても、「北アイルランドはたびたびテロが起きたりしていて危なっかしい」という程度の曖昧なものでして、具体的にいつテロが起きて、いつどのような損害が発生したかについての記憶というのは極めて曖昧です。
とはいえ、一応「北アイルランドは危ない」というおぼろげな記憶とと友に育ってきた人間としては、やっぱりこの北アイルランドの紛争の象徴としての場所には興味があります。
てなわけで、北アイルランド紛争の象徴としての場所、Peace Wallであります。
とりあえず、Wikipediaの平和の壁を眺めます。ベルファストのものが有名ですが、ベルファスト以外にも壁があること、ベルファストのものは解体が検討されていることなどが分かりますね。まあ、ダークツーリズムが静かなブームになっている?とはいえ、負の象徴をどこまで残すべきかというのは地元の方々としては色々と思うところはあるでしょう。純粋に生活に不便だろうし。
そんなこんなで、Crumlin Road Gaolからどうやってここに行ったかは分かりませんが、距離にして徒歩20分程度なので、歩いたのではないかと思います。
経路は謎ですが、とりあえず写真に映っているものから得られる情報を頼りにすると、Crimea St.とShankill Rd.の交差点にある建物脇の絵に到達しております。
Google Mapのストリートビューを見ていると、2020年までは私が行ったときと同じ絵が描かれておりますが、2023年には女王の大きな絵と、向かいの建物にはチャールズ国王の絵が掲げられておりました。
| Crimea Streetを歩いたのだろうか?? | Crimea St.とShankill Rd.の交差点にある建物脇の絵 | ||||
1975年に起きた**ベルファストのベヤルド・バー襲撃事件(Bayardo Bar attack)**は、北アイルランド紛争(The Troubles)の中でも、宗派対立の無差別性と残酷さを象徴する事件の一つです。このShankill Roadまわりではその他何回も事件が起きているようです。というわけで、Chat GPTさんにShankill Rdまわりで起きた事件を列挙してもらいました。なお、Chat GPTさんは「シャンクリル・ロード」と翻訳してきて、Shankillのスペルが合っているのか不安になりましたが、間違ってませんでした。となると、シャンキルと発音するのが正しいように思え、これを全て「シャンクリル」と出してきたChat GPTさんの信用性が思いっきり揺らぎます。まあ、「ではGeminiさんにも聞いてみます」とかやると何年かかっても終わらないので気にしないことにします。
事件は1975年8月13日、ベルファスト東部の**シャンクリル地区にある「ベヤルド・バー」で発生しました。この地域は主にプロテスタント系・ユニオニスト(親英派)**住民が多く、バーも地元住民の社交の場として知られていました。その夜、酒場が比較的混み合っていた時間帯に、**暫定IRA(Provisional IRA)**のメンバーが自動小銃を持って侵入し、店内に向けて無差別に発砲しました。
この銃撃により、5人が死亡、約50人が負傷しました。犠牲者は全員が民間人で、武装勢力や治安部隊とは無関係でした。IRAは後にこの攻撃について、誤ってUVF(アルスター義勇軍)関係者が集まっていると誤認したことを示唆しましたが、結果として無差別殺戮となり、強い非難を浴びました。
この事件は、**前年の1974年に起きた「マクガークス・バー爆破事件」**など、バーやパブが報復攻撃の標的となる連鎖の中で起きています。宗派を軸にした報復の応酬は、特定の個人ではなく「共同体そのもの」を標的にする傾向を強めており、ベヤルド・バー襲撃もその典型でした。
ベヤルド・バー事件は、IRA内部やナショナリスト社会においても戦術的・道義的失敗として議論され、以後、同様の無差別銃撃が戦略的に再検討される契機の一つとなりました。同時に、ユニオニスト社会には深い恐怖と怒りを残し、ベルファスト東部の緊張をさらに激化させました。
はい。シャンクリル・ロード(Shankill Road)周辺は北アイルランド紛争期において、特に多くの爆破・銃撃事件が集中した地域です。以下に代表的な事件を簡潔に列挙します(年順、概要のみ)。と、書いた直後に、やっぱり気になってGeminiさんに同じ質問を出してみました。
シャンクリル・ロードで発生した主な爆破・テロ事件
● 1971年 シャンクリル・ロード爆破事件
IRAによる爆弾攻撃が相次いだ時期の一つ。商店や通行人が巻き込まれ、民間人の死傷者が発生しました。
● 1972年 シャンクリル・ロード自動車爆弾事件
路上に仕掛けられた爆弾が爆発し、買い物客や通行人が犠牲に。1972年は「流血の年」と呼ばれ、同地区でも暴力が激化しました。
● 1974年 シャンクリル・ロード連続爆破事件
IRAによる複数の爆弾攻撃が発生。店舗・パブが標的となり、地域住民の生活空間が直接狙われました。
● 1975年 ベヤルド・バー襲撃事件
(ご質問の事件)IRAによる銃撃で5人死亡、多数負傷。爆破ではなく銃撃ですが、同じ文脈の宗派間テロです。
● 1993年 シャンクリル・ロード爆弾事件
IRAが魚屋(Frizzell’s Fish Shop)の上階で行われていたUVF幹部会合を狙って爆弾を仕掛けましたが、早期爆発により民間人9人とIRA爆弾犯1人が死亡。最も悪名高い事件の一つです。
● 1994年 シャンクリル・ロード報復攻撃
1993年事件への報復として、UVFがカトリック系市民を標的にした無差別銃撃・爆破を実行し、暴力の連鎖が続きました。
補足
シャンクリル・ロードはプロテスタント/ユニオニストの象徴的地域であったため、IRAの攻撃対象となる一方、ロイヤリスト武装組織(UVF・UDA)による報復拠点でもありました。その結果、軍事目標よりも民間人が犠牲となる事件が繰り返された点が大きな特徴です。
1975年に北アイルランドのベルファストで発生した**バヤード・バー襲撃事件(Bayardo Bar attack)**は、北アイルランド紛争(ザ・トラブルズ)の中でも特に凄惨な、宗派対立による報復の連鎖を象徴する事件の一つです。800字くらいで、と指定したのに1000文字で出してきやがりました。日本語数えられないのでしょうか。
以下にその概要と背景を詳しく解説します。
1. 事件の概要
1975年8月13日の夜、ベルファスト西部のシャンキル・ロード(プロテスタント系ロイヤリストの拠点)付近、アバディーン通りにある「バヤード・バー」が襲撃されました。
実行犯: 暫定アイルランド共和軍(PIRA)のベルファスト旅団。リーダーは、後にメイズ刑務所でのハンガーストライキの指揮官として知られることになるブレンダン・マクファーレンでした。
襲撃の手口: IRAのメンバー3名が乗った車がバーの前に到着。1人が入り口付近の人々に自動小銃(アマルライト)で銃撃を加え、その後、別のメンバーが店内にダッフルバッグに入った約5kgの爆弾を投げ込みました。
被害: 爆発により建物の一部が崩壊し、逃げ遅れた人々が瓦礫の下敷きになりました。この攻撃で5名が死亡(4名のプロテスタント系一般市民と1名のUVFメンバー)、50名以上が負傷するという大惨事となりました。
2. 事件の背景:報復の連鎖
この襲撃は、そのわずか2週間ほど前に発生した**「ミアミ・ショーバンド虐殺事件」**に対する直接的な報復であったとされています。
1975年7月31日、アイルランドの人気バンド「ミアミ・ショーバンド」が、親英国派武装組織のアルスター義勇軍(UVF)によって待ち伏せされ、メンバー3名が射殺される事件が起きました。バヤード・バーはUVFのメンバーが頻繁に出入りする場所として知られていたため、IRAはそこを標的に選んだのです。しかし、犠牲者の大半は武装組織とは無関係な一般市民でした。
3. その後の影響と結末
襲撃の直後、実行犯のマクファーレンを含む3名は警察の検問で逮捕されました。彼らには終身刑が言い渡されましたが、この事件はロイヤリスト側の反感に火をつけ、さらなる報復攻撃を招く結果となりました。
バヤード・バーの跡地には現在、犠牲者を追悼する記念碑が建てられています。この事件は、北アイルランド紛争がいかに無実の市民を巻き込み、憎しみの連鎖を深めていったかを物語る歴史的断絶点として記憶されています。
シャンキル・ロード(Shankill Road)は、ベルファストにおけるプロテスタント・ロイヤリスト(親英国派)の象徴的な拠点であったため、北アイルランド紛争中、暫定IRA(PIRA)などの共和派武装組織による攻撃の標的としばしばなりました。このままだと終わらないので、これくらいにしておきます。
バヤード・バー襲撃以外で特に知られる主要な事件を時系列で列挙します。
1. フォーステップ・イン爆破事件 (Four Step Inn bombing)
発生日: 1971年9月29日
概要: 混雑していたパブ「フォーステップ・イン」にIRAが爆弾を仕掛けました。この爆発で2名が死亡、約20名が負傷しました。これは紛争初期におけるシャンキル・ロードでの大規模な爆破事件の一つです。
2. バルモラル家具店爆破事件 (Balmoral Furniture Company bombing)
発生日: 1971年12月11日
概要: 土曜日の昼時、買い物客で賑わう家具店に予告なしで爆弾が投げ込まれました。建物が完全に崩壊し、生後4ヶ月と17ヶ月の乳児を含む4名が死亡しました。罪のない子供が犠牲になったことで、地域社会に極めて大きな衝撃と怒りを与えた事件です。
3. マウンテンビュー・タバーン襲撃事件 (Mountainview Tavern attack)
発生日: 1975年4月5日
概要: バヤード・バー襲撃の数ヶ月前、シャンキル・ロードの上部にあるこのパブがIRAに襲撃されました。銃撃と爆弾によって5名(市民4名、ボランティア1名)が死亡しました。この時期は「報復の応酬」が激化していた時期でした。
4. シャンキル・ロード爆破事件 (Shankill Road bombing / Frizzell's Fish Shop)
発生日: 1993年10月23日
概要: 紛争後期において最も悪名高い事件の一つです。IRAのメンバーが、魚屋「フリッツェルズ」の2階で開かれていると信じていたロイヤリスト準軍事組織(UDA)の幹部会議を狙って爆弾を持ち込みました。
被害: 爆弾が予定より早く爆発し、民間人8名とUDAメンバー1名、そして実行犯のIRAメンバー1名の計10名が死亡しました。犠牲者には7歳と13歳の少女も含まれていました。この事件は凄惨な報復の連鎖を呼び、数日後の「グレースティールの虐殺」へと繋がりました。
まとめ:なぜシャンキル・ロードが狙われたのか
シャンキル・ロードは単なる居住区ではなく、ロイヤリストの準軍事組織(UVFやUDA)の司令部や活動拠点としての側面を持っていました。そのため、IRAにとっては「敵の本拠地」を叩く戦略的な意味がありましたが、結果としてその多くは一般市民を巻き込む無差別テロとなり、北アイルランド社会の分断を深めることとなりました。
| Shankill Roadまわり | ||||
| ゲートその1 黄色い鉄板はその後取り外された様子 |
中間点にあった絵 | ゲートその2 | ||
| St Peter's Cathedral, Belfast | 左右を見る | マンデラさん | 活動家の皆様 inflictでなくendureできる者が勝つのです よく見たら、右の真ん中にボビー・サンズもいますね |
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| To Protect Partition And To Serve Capitalism |
Capitalismとの戦いを示す絵が続く。親パレスチナなんですかね? | ||||
| Solidarity P.O.W.s | the bytes project | ここにも門がありました | 真ん中はフレデリック・ダグラス | Welcome to the Shankill Road | |
| ちょっとした公園のようなスペース 様々な国旗も描かれております |
The Cross of Crosses One died for all |
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| その他の展示。検索したけれど、よく分からなかった | |||||
- peace wallはピース感なしまあ、日本人が思い描く、みんなおてて繋いでリスペクト、という感じの絵ではないので、このような感想に至ったとしても納得であります。
北アイルランド紛争において、ロイヤリスト(親英国派)武装組織による攻撃は非常に多く、統計的には紛争全体の民間人犠牲者のうち、ロイヤリスト側による殺害が最も多い(共和派であるIRAよりも多い)という事実があります。
彼らの多くは「IRAへの報復」を大義名分としていましたが、その標的はIRAのメンバーではなく、無実のカトリック系市民がランダムに狙われる「宗派テロ」の形を強く帯びていました。
以下に、ロイヤリスト側(UVF:アルスター義勇軍、UDA/UFF:アルスター防衛同盟など)による主な重大事件を挙げます。
1. マガークス・バー爆破事件 (McGurk's Bar bombing) 発生日: 1971年12月4日
実行組織: アルスター義勇軍 (UVF)
概要: ベルファスト北部のカトリック系住民が集まるパブ「マガークス・バー」に爆弾が仕掛けられ、建物が完全に崩壊。15名が死亡しました。
特徴: 当初、当局やメディアは「IRAの爆弾が店内で暴発した(自爆テロの失敗)」という誤った情報を流し、犠牲者の名誉が傷つけられた歴史があります。後にUVFの犯行であることが確定しました。
2. ダブリン・モナハン爆破事件 (Dublin and Monaghan bombings) 発生日: 1974年5月17日
実行組織: アルスター義勇軍 (UVF)
概要: 北アイルランドの外、アイルランド共和国の首都ダブリンとモナハンで発生した同時爆破事件です。33名(と胎児1名)が死亡しました。
特徴: 北アイルランド紛争において、1日で発生した犠牲者数としては最多の惨劇です。この事件には、当時のイギリス軍や情報機関の関与(共謀)があったという疑惑が長年議論されています。
3. グレースティールの虐殺 (Greysteel massacre) 発生日: 1993年10月30日
実行組織: アルスター防衛同盟 (UDA/UFF)
概要: ハロウィン・パーティーで賑わうパブに武装集団が押し入り、「トリック・オア・トリート(お菓子をくれなきゃいたずらするぞ)」と言い放った直後に乱射を開始。8名が死亡しました。
背景: これは、その1週間前にシャンキル・ロードで起きたIRAによる爆破事件(前述の「フリッツェルズ魚屋事件」)に対する、凄惨な直接的報復でした。
4. ロッキニスランドの虐殺 (Loughinisland massacre) 発生日: 1994年6月18日
実行組織: アルスター義勇軍 (UVF)
概要: カントリー・ダウンにある小さなパブで、人々がサッカーのワールドカップ(アイルランド対イタリア戦)をテレビ観戦していたところを狙った襲撃です。6名が死亡しました。
「シャンキル・ブッチャーズ」の恐怖
また、事件単体ではありませんが、シャンキル・ロードを拠点としたロイヤリストの一味**「シャンキル・ブッチャーズ(Shankill Butchers)」**は紛争史の中で最も恐れられた存在です。 彼らは1970年代、カトリック居住区からランダムに通行人を拉致し、シャンキル・ロード付近の廃墟などに連れ込んで、肉切り包丁で凄惨な拷問を加えた末に殺害するという凶行を繰り返しました。
まとめ:犠牲者数の比較
北アイルランド紛争における死者数の統計(CAINプロジェクトによる)を見ると、その凄惨な構図がわかります。
ロイヤリスト側の攻撃は、IRAを弱体化させるというよりは、カトリック市民全体に恐怖を与え、IRAを支持させないようにする「恐怖政治」に近い側面を持っていました。
実行組織 民間人の殺害数 ロイヤリスト(UVF/UDA等) 約850名以上 共和派(IRA等) 約720名以上
この紛争が落ち着いた理由を聞いてみました。
30年間にわたり3,500人以上の命を奪った北アイルランド紛争(ザ・トラブルズ)が落ち着いた理由は、単一の出来事ではなく、政治・軍事・国際社会の3つの要素が複雑に絡み合った結果です。
最大の転換点は、1998年4月10日に結ばれた**ベルファスト合意(グッドフライデー合意)**にあります。
1. 軍事的な「膠着状態」への気づき
1980年代後半、暫定IRA(共和派)とイギリス政府・ロイヤリスト側の双方が、**「軍事的な勝利は不可能である」**という現実に直面しました。
・ IRAはイギリスを北アイルランドから武力で追い出すことはできず、イギリス軍もまたIRAを完全に壊滅させることはできませんでした。
・ この「壊滅なき膠着状態」が、武力闘争から政治対話へと舵を切る土壌を作りました。
2. 政治的リーダーシップと秘密交渉
対立する陣営の中に、リスクを冒してでも対話を選んだ指導者たちが現れました。
・ 穏健共和派のジョン・ヒュームと、IRAの政治部門シン・フェイン党のジェリー・アダムスが対話を開始し、IRAに停戦を促しました。
・ 同時に、イギリス政府とアイルランド政府が協力体制を築き、テロリストを排除するのではなく、**「対話のテーブルに引き込む」**戦略をとったことが功を奏しました。
3. アメリカと国際社会の介入
アメリカのビル・クリントン政権による積極的な関与は決定的でした。元上院議員のジョージ・ミッチェルが調停役となり、全ての主要政党を交渉の場に留まらせました。国際的な監視があったことで、当事者たちは容易に合意を破ることができなくなりました。
4. ベルファスト合意(1998年)の中身
この合意が成功したのは、以下の画期的な仕組みを導入したからです。
・ 権力分担(パワー・シェアリング): 多数派のプロテスタント系だけでなく、少数派のカトリック系も必ず政権に参加できる仕組みを作りました。
・ アイルランド国境の「非物質化」: 当時は双方ともEU加盟国だったため、南北間の検問所を撤去し、自由に往来できるようにしました。
・ 武装解除と囚人の釈放: 武装組織が武器を捨てる代わりに、紛争に関連して投獄されていた人々を釈放するという、痛みを伴う妥協が受け入れられました。
結論
紛争が落ち着いたのは、双方が「理想の100%」を諦め、**「共存のための50%」**を受け入れたからです。現在もブレグジット(英国のEU離脱)の影響で国境問題が再燃するなど、平和は決して盤石ではありませんが、かつてのような大規模な暴力の連鎖は、この合意によって断ち切られました。
現在の「壁(平和の壁)」の状況について
北アイルランドのベルファストを中心に残る「平和の壁(Peace Walls / Peace Lines)」は、紛争終結から25年以上が経過した現在(2026年)でも、依然として街の風景の重要な一部であり続けています。
しかし、その役割や社会的な位置づけは少しずつ変化しています。現在の状況を4つのポイントで解説します。
1. 依然として残る「壁」の数と現状
北アイルランド当局の当初の目標では、2023年までに全ての壁を撤去する計画でしたが、現在もその多くが残されています。
数と規模: ベルファスト市内を中心に約60〜90カ所(定義により異なる)の障壁が存在し、総延長は約34kmに及びます。
夜間の閉鎖: 驚くべきことに、主要な境界線にあるゲートの多くは、現在でも夜間(18:30頃〜翌朝)になると閉鎖され、物理的にコミュニティを分断しています。これは、夜間の不慮の衝突や「反社会的行動」を防ぐため、住民が望んでいるという側面もあります。
2. 観光地としての「平和の壁」
かつての「分断の象徴」は、現在ではベルファスト最大の観光スポットの一つになっています。
ブラック・キャブ・ツアー: 観光客を乗せたタクシーが壁を巡り、歴史を解説するツアーが人気です。
壁画(ミューラル): 壁には平和を願うメッセージだけでなく、パレスチナ問題やウクライナ情勢など、現代の国際情勢を反映した政治的なメッセージが常に上書きされています。訪れた著名人(ダライ・ラマやクリントン元大統領など)がサインを残すことも恒例となっています。
3. なぜ撤去が進まないのか?
行政は撤去を推進していますが、最大の壁は**「住民の同意」**です。
安全への不安: 2020年代の調査でも、壁の近くに住む住民の約4割が「安全のためにまだ壁が必要だ」と感じています。特に、ブレグジット(英国のEU離脱)後の北アイルランド議定書を巡る緊張や、断続的に発生する小規模な暴動が、住民の不安を煽る要因となっています。
同意ベースの撤去: 政府は「無理やり壊すのではなく、両側のコミュニティが合意した時にのみ壊す」という方針をとっているため、プロセスは非常にゆっくりとしています。
4. 前向きな変化:共有スペースへの転換
一方で、完全に壊すのではなく「作り変える」動きも進んでいます。
ゲートの開放時間の延長: 以前は常に閉まっていたゲートが、日中は開放される場所が増えました。
共有スペースの創設: 壁の一部を取り壊し、プロテスタントとカトリック両方の子供たちが遊べる「コミュニティ・パーク」や「共有のオフィス」を作るプロジェクトが進んでいます(例:ウェスト・ベルファストのブラック・マウンテン・プロジェクトなど)。
まとめ
現在の「平和の壁」は、**「過去の傷跡」であると同時に、今なお続く「社会的な保険」であり、かつ「観光資源」**でもあるという、複雑でパラドキシカルな存在です。2035年頃を一つのマイルストーンとして街の再開発と一体化した統合が進められていますが、完全な撤去にはまだ時間がかかると見られています。
有名な壁画の背景
ベルファストの壁画(ミューラル)は、単なるアートではなく、それぞれのコミュニティの**「アイデンティティ」「歴史的解釈」「政治的主張」**を表現する非常に重要なメディアです。13.Mikado
共和派(カトリック)とロイヤリスト(プロテスタント)では、描かれるテーマが大きく異なります。代表的なものをいくつか詳しく解説します。
1. 共和派(カトリック側)の代表的な壁画
フォールズ・ロード周辺に多く、国際的な連帯や「抵抗の歴史」を強調する傾向があります。
ボビー・サンズの壁画 (Bobby Sands Mural)
場所: セバストポリ通り(シン・フェイン党事務所の壁)
背景: ベルファストで最も有名な壁画です。ボビー・サンズは、1981年に刑務所内で「政治犯としての処遇」を求めてハンガーストライキを行い、絶食の末に亡くなったIRAのメンバーです。
意味: 彼の穏やかな笑顔の横には「私たちの復讐は、私たちの子供たちの笑い声だ(Our revenge will be the laughter of our children)」という言葉が添えられています。彼は共和派にとっての聖人・殉教者のような存在として描かれています。
インターナショナル・ウォール (The International Wall)
場所: フォールズ・ロード
背景: 世界中の抑圧された人々や自由闘争との連帯を示す壁です。
意味: パレスチナ問題、ネルソン・マンデラ、キューバ革命、さらにはアメリカの人種差別問題などが描かれます。自分たちの闘争を、世界的な「反植民地主義・人権闘争」の一部として位置づける意図があります。
2. ロイヤリスト(プロテスタント側)の代表的な壁画
シャンキル・ロード周辺に多く、英国への忠誠心、歴史的勝利、そして「自衛」をテーマにする傾向があります。
ウィリアム3世(キング・ビリー)の壁画 (King Billy Mural)
背景: 1690年の「ボイン川の戦い」でカトリックのジェームズ2世を破ったプロテスタントの王、ウィリアム3世(オレンジ公ウィリアム)を描いたものです。
意味: 白馬にまたがった王の姿は、ロイヤリストのアイデンティティの根幹です。「この地はプロテスタントの地である」という宣言であり、現在でもこの伝統的な構図の壁画は多く残っています。
パラミリタリー(武装組織)の追悼壁画
背景: UVF(アルスター義勇軍)やUDA(アルスター防衛同盟)の武装した兵士が描かれたものです。
意味: かつては覆面の男が銃を構える威圧的なものが多かったのですが、和平が進んだ現在は、亡くなったメンバーを「地域の守護者」や「戦没者」として追悼する、より儀礼的・軍事記念碑的なスタイルに変化しています。
3. 「平和と和解」への変化(新しい壁画)
近年では、対立を煽るのではなく、共通の未来を志向する壁画への塗り替えが進んでいます。
「銃からペンへ」の変化
背景: 政府や地域のプロジェクトにより、過激な武装兵士の絵が、地元の有名人(サッカー選手のジョージ・ベストや作家のC.S.ルイスなど)や、子供たちが一緒に遊ぶ姿へと描き変えられています。
意味: 過去のトラウマを乗り越え、新しいベルファストのイメージを構築しようとする試みです。
ゲルニカのオマージュ
場所: インターナショナル・ウォールの一部
背景: ピカソの「ゲルニカ」をモチーフにした壁画です。
意味: 紛争の残酷さと無意味さを訴え、暴力による解決を否定する平和への強いメッセージが込められています。
まとめ:壁画を見る際のポイント
ベルファストの壁画は、**「上書き」**されるのが宿命です。昨日まであった有名な絵が、新しい政治的メッセージや追悼のために塗りつぶされることも珍しくありません。そのため、訪れるたびにその時々のコミュニティの「温度感」を知ることができる、生きた歴史資料と言えます。
今は昔,確か日本とかいう場所で上映するか否かですったもんだしていたオペラ,Mikadoをなぜかベルファストで見ました。今月末こっちに来る予定で,こっちで見る予定だったんですが,同行者があっちでなにか見たいと言ってたので誘導してしまった。まあほかにやってるのがつまらなさそうだったし,日本(とイギリス)で遊んでるオペラだということで同意を得られました。ついでに、当日の私のメモ。
まあ,英語が分からんのであれなんですが,驚いたのが森の中の置き去り事件が劇中でネタにされ,しかもそれでかなり笑いをとれていたこと。どれだけ有名なんだこの事件。
まあそれはそれとして,(事前にストーリーは予習してたこともあって)なんとかついていける部分も当然ありまして,音楽はもちろんそれ以外も楽しめました。
- ミカド。置き去り事件がネタにされ、笑いをとれてるのが凄い日記でもメモでも触れられている、森の中の置き去り事件。一体何だったっけ。2026年1月になって、2016年6月の事件を検索するのも大変なのだけれど、おそらくこれだな。
- 和服っぽい服を着てるのが西洋人で、英語を話しているという状況に違和感がありすぎる。なんかむずむずする
- 波と骨
- ミヤサマは多分現地人理解できないだろ。優越感
| Grand Opera House外観 | チケット 約20ポンドです |
スナック売り場 | |
| なかの様子 | 幕 | 後ろ | |
| 天井 | 周囲 | ||
| 日が落ちました | 向かいのホテル | ||
| 旅行記TOP / 旅打ち / テーマ別 | |||||
| 北アイルランド旅行 | |||||
| 0日目 | 1日目 | ||||
| ロンドン | ノッティンガム | サウスウェル競馬場 | |||
| ロイズビル | Galleries of Justice | City of Caves | ノッティンガム城 | 訪問記 | 観戦記 |
| 2日目 | 3日目 | 4日目 | 5日目 | ||
| ベルファスト | ジャイアンツコーズウェイ | ベルファスト | |||
| Belfast Day 1 | Carrick-a-rede Ropebridge | Giant's causeway | Crumlin Road Gaol | Peace Wall | Titanic Belfast |